室町時代の鎌倉はどうなった?
足利尊氏・新田義貞らにより、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は攻められました。得宗の北条一族はこれにより滅亡しました。
その後の、南北朝時代や続く室町時代の鎌倉はどうなったのでしょうか?
衰退した?いえいえ、繫栄していました。
鎌倉公方がいた鎌倉の様子
鎌倉には東日本を統治する、鎌倉府が置かれ、二代足利将軍の弟の、足利基氏が初代鎌倉公方となりました。
鎌倉は、鎌倉府に出仕する、東国各地の武士の屋敷も、建てられました。商業の振興策も取られたので、栄えていました。
鎌倉府は、鶴岡八幡宮・勝長寿院はじめとする、関東各地の寺社の別当職も任命し、寺社政策も独自にしています。

瑞泉寺
私、江戸紫は鎌倉に住んで52年になります。このサイトは歴史好き・歴史マニア・歴史オタクの皆さまのための、鎌倉ブログです。
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鎌倉府と鎌倉公方の、分かり易い歴史
建武の新政から室町幕府が鎌倉府を置くまで
鎌倉幕府が滅亡した元弘3年(1333)の12月、後醍醐天皇の建武の親権(建武政権)で、後醍醐天皇の皇子、成良親王を足利尊氏の弟・足利直義が補佐することで、鎌倉将軍府が置かれました。
中先代の乱と鎌倉府創立
建武2年(1335)に執権北条高塒の遺児の北条時行が、鎌倉幕府復活のため反乱を起こしました。この中先代の乱により、成良親王、直義らは敗走して、鎌倉将軍府は崩壊しました。
その後、足利尊氏の作った室町政権は、東国統治の必要がありました。尊氏の子の義詮をトップとした鎌倉府を創立しました。
その後勃発した、足利尊氏と直義の内戦、観応の擾乱が勃発しました。その過程で尊氏の嫡子の義詮が京都に戻りました。入れ替わりに弟の基氏が鎌倉に下ったのでした。
初代鎌倉公方 足利基氏もとうじ 鎌倉府の礎を築くが、若死。
- 在任期間 貞和五年(一三四九)~貞治六年(一三六七)
- 生没年 暦応三年(一三四〇)~貞治六年(一三六七)
- 幼名 光応(亀岩)
- 父 足利尊氏
- 母 赤橋登子
足利尊氏の末子の基氏は、貞和五年(一三四九)九月鎌倉に入りました。まだ十歳でした。またいとこの上杉憲顕に補佐されて成長しました。
文和二年、十四歳になった基氏は、執事の畠山国清とともに、武蔵国入間川の陣に着陣しました。こちらに鎌倉府機能も移して、国清とともに、関東統治をしたのでした。
畠山国清の乱
貞治元年(一三六一)畠山国清の乱が起こりました。南朝征伐に国清は関東の兵を率い、上洛したのですが、東国の武士達は、参加しなかったり、遅れたりしました。怒った国清は参加しなかった武士の領地を没収して、反発を受けました。
鎌倉公方基氏に、武士たちは国清の罷免を要求しました。国清は領地の伊豆に籠り挙兵したのでした。基氏は、現在の伊豆の国市にある、三戸城・神益城・立野城を攻めて、国清を降伏させました。
鎌倉公方足利基氏展 鎌倉国宝館 2017 室町時代になっても鎌倉は繁栄していました。

二代目鎌倉公方 足利氏満うじみつ
- 在任期間 貞治六年(一三六七)~応永五年(一三九八)
- 生没年 延文四年(一三五九)~応永五年(一三九八)
- 幼名 金王丸
- 父 足利基氏
- 母 畠山氏
初代鎌倉公方足利基氏が亡くなった直後、室町幕府は、バサラ大名で有名な佐々木道誉を鎌倉に、下向させました。所領問題や鎌倉の寺社の造営は、道誉や室町二代目将軍義詮が行いました。南朝の反乱も続く時代でしたので、幼い子供が鎌倉公方になれる状況ではありませんでした。
貞治六年十一月に、今度は将軍義詮が急死しました。心機一転、京都では三代将軍 義満。鎌倉では、基氏の遺児 氏満が鎌倉公方になりました。
この時から、基氏の子孫が、代々鎌倉公方になることが取り決められたのです。No.2の関東管領は上杉家が勤めることになりました。
平一揆の乱
鎌倉公方と武士団との戦いがありました。秩父と相模の平氏系の武士団の反乱、平一揆の乱を鎮圧しました。
また、有力氏族の力を削ぐために、康暦二年(一三八〇)下野の小山義政と、至徳四年(一三八四)に常陸の小田孝朝を、鎌倉公方は成敗している。
京都の将軍義満とは軋轢があり、京都に何かあると、鎌倉公方は連動して動きました。京都での細川頼之排除の動きに、反応しました。
三代将軍義満へのわび状
康暦元年(一三七九)、氏満は義満に、野心がありませんと、自筆の文章を提出して、わびました。
三代目鎌倉公方 足利満兼みつかね
- 在任期間 永和四年(一三七八)~応永十六年(一四〇八)
- 生没年 応永五年(一三九八)~応永十六年(一四〇八)
- 幼名 寿王丸
- 父 足利氏満
- 母 不明
稲村公方 篠川公方 伊達政宗の乱
鎌倉公方満兼は、弟を東北地方に派遣しました。満兼の弟、満貞は稲村公方として、陸奥稲村へ。同じ弟の満直を篠川公方として、陸奥篠川へ派遣しました。
東北地方への支配強化は反発された。応永七年(一四〇〇)に伊達政宗の乱が起こりました。
応永の乱に応じて、満兼出陣
大内義弘が堺で挙兵した、応永の乱に、鎌倉公方満兼は応じて京都に出陣するため、武蔵府中に向かいました。大内軍は室町幕府により鎮圧されました。満兼と関東武士が京にいくことはありませんでした。
鎌倉公方は、室町将軍になることの野望を持っているのです。
三代目鎌倉公方 足利持氏もちうじ永享の大乱を起こし、室町に対抗。
- 在任期間 応永十六年(一四〇八)~永享十一(一四三九)
- 生没年 応永十六年(一四〇九)~永享十一(一四三九)
- 幼名 幸王丸
- 父 足利満兼
- 母 一色氏
上杉禅宗の乱
応永二十三年、上杉禅宗の乱が起こりました。持氏の叔父・足利満隆と、前関東管領上杉禅宗が、持氏と現職の関東管領山内上杉憲基を襲撃しました。鎌倉で合戦を行い、持氏は駿河に逃げました。
鎌倉公方持氏は、京都の室町幕府の支持を得て、反撃したのでした。禅宗は自害しました。
永享の大乱
持氏対室町幕府。永享の大乱が勃発しました。
応永三十年(一四二三)に室町将軍足利義持が、後継者を決めずに亡くなりました。鎌倉公方足利持氏は、将軍就任に期待しました。実際にはくじ引きで、足利義教が就任しました。
その後持氏は、京都の幕府に反抗的な態度を取りました。
持氏は、上杉家諸流の扇谷家、宅間家を重用しました。関東管領の山内上杉憲実と敵対するようになりました。
決定的に、関係が悪くなったのは、持氏の嫡子・賢王丸を元服させたとき、慣例により将軍から一字貰うところ、将軍の通字の「義」から義久と名乗らせました。
上杉憲実は自害をしようとしました。家来の勧めにより上野国に去りました。
持氏は憲実を討伐するため、武蔵府中に出兵しました。幕府は上杉憲実救済のため軍を送り、小田原・風祭・早川で戦闘がありました。幕府は後花園天皇より、持氏を朝敵とする綸旨を得ました。
持氏の軍から、千葉氏など離脱する者がでました。幕府軍は、鎌倉の鎌倉公方の屋敷を攻め、息子の義久の身柄を確保しました。
劣勢になった持氏は、鎌倉の浄智寺と永安寺(廃寺)と金沢に称名寺いたところを攻められ捕らえられました。持氏は永安寺で自害、義久も報国寺で自害したのでした。

別願寺 足利持氏の供養塔
鎌倉公方の菩提寺、別願寺にある、足利持氏の供養塔です。石塔自体は南北朝時代の物です。鎌倉公方らしく、品格のある石塔だと思います。
ネットでは、四面の鳥居は、持氏の悪霊を封じ込めるためと、いう記事が見られます。私・個人はそこまでオカルトではないと思っています。皆さんはどう思いますか?
別願寺

結城合戦から、足利将軍義教の謀殺・嘉吉の乱、そして空位時代へ。
結城合戦
永享十二年(一四四〇)、持氏の遺児・安王丸、春王丸は、結城氏朝を中心とする、反室町幕府の武将たちに迎えられ、結城城に籠りました。これを結城合戦といいます。
翌、嘉吉元年(一四四一)四月、室町幕府上杉連合軍に攻められ敗北しました。
安王丸・春王丸は京都へ連行される途中、美濃国垂井で処刑されました。
嘉吉の変
結城合戦の終結後の二か月後、京都で将軍足利義教が、西国の守護の赤松満祐により、宴会中に殺害されまた。嘉吉の変です。
義教は独裁恐怖政治をしていましたので、クーデターは誰かに起こされた可能性があります。(室町武士ならやる!)赤松氏はこれにより没落しました。
東の鎌倉公方の足利持氏と、西の有力守護の赤松満祐、交応するかのように没落しました。
これから、鎌倉公方と室町将軍がいない、時代になりました。
四代目鎌倉公方 初代古河公方 足利成氏しげうじ 戦国時代は鎌倉からはじまった!
- 在任期間 文安四年(一四四七)頃~享徳三年(一四五四)鎌倉から去る
- 生没年 永享三年(一四三一)~明応六年(一四九七)
- 幼名 万寿王丸
- 父 足利持氏
- 母 一色氏
永享の乱、結城合戦で、兄弟を失った、成氏は、幼く、信州の地方の国衆に保護されていたので、生き延びました。
東国の武士達より、鎌倉公方復活を望む声がありました。文安六年(一四四九)足利義成(義政)の将軍就任後に、鎌倉公方に成氏が就任しました。
関東管領も、持氏を滅ぼした上杉憲実から、子の上杉憲忠に変わりました。鎌倉公方成氏との関係は波乱を含んだものでした。
江ノ島合戦
翌、宝徳二年(一四五〇)四月、江ノ島合戦が起こりました。上杉家の家宰・長尾景仲や、扇ケ谷上杉家の家宰の太田道真(有名な太田道灌の父)らが、鎌倉西御門の成氏の屋敷を攻めました。
江ノ島に避難した成氏は七里ヶ浜・由比ヶ浜で合戦をしました。
享徳の乱
ついに鎌倉府に崩壊に至る、享徳の乱が勃発しました。
享徳三年(一四五四)十二月二七日、鎌倉公方・成氏は、西御門の邸宅に、関東管領上杉憲忠を招きました。憲忠をそこで殺しました。夜に山ノ内にある上杉邸を襲撃し、上杉氏を敗走させました。
足利成氏は、古河に拠点を移しました。初代古河公方となったのです。ここに鎌倉府は崩壊しました。
古河に拠点を移した成氏に、対する上杉室町幕府連合軍は、利根川対岸の五十子に、陣を張りました。
管領・細川政元の提起で、幕府と古河公方の和解交渉が、行われました。文明十四年(一四八二)に「都鄙合体」が成立しました。
30年続いた享徳の乱は終了し、古河公方は五代続くことになりました。
享徳の乱は京都に波及して、応仁の乱がはじまったのです。
室町幕府で享徳の乱に対応した、室町将軍足利義政と管領細川勝元は、成氏に勝つことが出来なくて、天に見放されているとされました。それが山名宗全の反乱の根拠になりました。
東の鎌倉府で起こった、室町秩序の破壊は、京都の室町幕府に伝播して、応仁の乱を起こしました。全国を戦国時代に、突入させたのでした。
鎌倉府の組織の説明。不安定要素!No.1鎌倉公方は公方の嫡子だか、No.2の関東管領は室町将軍が任命。
鎌倉府の各職の説明をします。
室町幕府の、有力者をけん制する組織図になっています。鎌倉公方の支配地に、京都の幕府と近しい有力氏族もいました。
江戸幕府を知っている人間として思うのですが、コレ反乱が起こるのは必須です。京都も絡まると、泥沼の戦乱に入るのも、必然と思います。行く先は戦国時代・・
鎌倉公方
室町幕府、第一第将軍足利尊氏の、次男、基氏とその子孫が鎌倉公方になりました。
鎌倉公方の後継ぎは、どう決めたのでしょうか。室町将軍は任命しませんでした。
鎌倉公方の嫡子が、元服するときに、室町将軍の名前の一字をいただくことで、次の鎌倉公方となりました。
二代鎌倉公方、氏満と三代目、満兼は、室町三代将軍義満から、一字いただき。四代鎌倉公方、持氏は、四代将軍義持から一字を、いただきました。
代々の鎌倉公方は室町将軍に、を対抗心持っていました。
鎌倉公方の経済基盤は、鎌倉時代に足利氏と、滅亡した北条氏が持っていた、関東の所領です。
もう一つの経済基盤は、物流に税を掛けていました。街道と、当時「内海」と言われた東京湾を押さえていいました。港に出入りする船に掛ける、「帆別銭」などを徴収していました。

報国寺 竹林
関東管領
鎌倉府で鎌倉公方の補佐をするのが、関東管領です。南北朝時代に上杉憲顕が就いて以来、上杉家が関東管領になりました。
関東管領の任命権は、京都の室町幕府にありました。関東管領は鎌倉府と室町幕府とを、取り次ぐ役目がありました。
上杉一族は、藤原北家諸流、勧修寺藤原氏の一族です。宗尊親王が将軍として鎌倉に下向した時、上杉重房は従って鎌倉に来ました。
上杉氏は足利氏と婚姻を結び、初代将軍足利尊氏と直義兄弟の母は、上杉氏でした。上杉氏は足利将軍家の、外戚になります。室町幕府では重用されました
住んでいる場所により、山内上杉が本家筋で、犬懸上杉、扇谷上杉、宅間上杉に分かれます。
(鎌倉市民的には、山ノ内と扇ガ谷は、隣の町内会)
関東管領の仕事は、公方が発給する御教書を受けて、奉書・施行状を出します。鎌倉公方の命令を伝える役割がありました。

明月院 本堂後庭園より眺める
守護
守護の役割は、鎌倉時代にあった、大番役(京都・鎌倉の警護役)の催促・謀反人の検断・殺害者の検断の大犯三箇条に加えて、室町時代になると、苅田狼藉(勝手に人の田を刈り取ること)の検断、所領争いの裁判も強制執行。没収した土地を味方に与える権利が加わり、権力が大きくなりました。
千葉氏・小山氏・佐竹氏と、鎌倉時代からの名門氏族が就いています。
室町時代の鎌倉府の守護は、鎌倉に常駐していました。大宝寺は室町時代に佐竹氏の屋敷の跡地です。

奉公衆 鎌倉公方の直属軍
奉公衆は鎌倉公方の軍隊です。全体像がまだ解明されていません。関東各地にまんべんなく奉公衆はいました。
上杉禅宗の乱・応永二十三年(一四一六)当時の奉公衆は、五百名でした。結城合戦で、結城城に籠城した中にも奉公衆が一部いました。

鎌倉府政治機構
鎌倉公方持氏を苦しめた、京都扶持衆
「京都扶持衆」は現代の研究者が名付けた学術用語です。
鎌倉府の管轄内の、東国武家の中で、京都の室町将軍と主従関係結んだ武家です。
下野の宇都宮氏・那須氏、常陸の大掾氏・真壁氏・小栗氏、南奥の伊達氏、白川結城氏らがいました。
鎌倉公方が京都扶持衆を、攻めるとどうなるのでしょうか。
三代鎌倉公方持氏は、小栗氏をはじめとして京都扶持衆の討伐をはじめました。京都扶持衆は幕府と関係があるので、幕府と敵対することになりました。
室町マニアなら行くしかない!鎌倉府関係名所を紹介。
鎌倉公方の屋敷跡や菩提寺があるのは、二階堂・浄明寺地区に集まっています。
大町にも鎌倉公方と鎌倉府にゆかりの寺があります。この辺りは商工業者のいる地区でもあります。
上杉氏ゆかりの寺院は、意外にも有名寺院なんです。
室町時代の鎌倉を知るならば、定番の、鶴岡八幡宮や、北鎌倉にある、鎌倉五山の建長寺・円覚寺・浄智寺にも訪れたいものです。
鎌倉は海のそばの古都です。鎌倉の環境を知るには材木座・由比ガ浜など海にも行ってみましょう。

報国寺 やぐら
ガイドブックから研究書まで、鎌倉公方を楽しむ本
ガイドブック
「鎌倉石碑めぐり」 Kindle版 天瀬 豊人著
「鎌倉石碑めぐり」 Kindle版 天瀬 豊人著は、鎌倉を歩いていると、よく見掛ける石碑の、場所・彫られている文面・現代語訳が丁寧に書かれた、電子書籍になります。鎌倉観光には必携の書籍なのです。
鎌倉時代の旧跡の石碑も多いです。室町時代の史跡も多く紹介されています。
足利公方邸旧跡、上杉朝宗及び氏憲邸跡、扇谷上杉管領屋敷跡など。鎌倉府関連の旧跡の石碑も取り上げられています。詳しい行き方も出ていますので、鎌倉散策にはお勧めします。
kindle ¥250- もしくは kindleunlimited(月額読み放題)で読めます。
「関東の室町・戦国を歩く: 鎌倉公方と古河公方を追って」
「関東の室町・戦国を歩く: 鎌倉公方と古河公方を追って」は、永享の乱により鎌倉を脱出した、足利成氏とその子孫の、古河公方を追い、鎌倉だけでなく関東各地を訪れたものです。
写真が豊富なので、古河はどんな土地なのか分かります。kindleunlimitedなので、無料で読めますよ。
kindle \300- kindleunlimited(月額読み放題) 書籍 \1,430-
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入門書
中世鎌倉盛衰草紙 -東国首都鎌倉の成立と展開-
享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」 (講談社選書メチエ) の著者の峰岸澄夫先生の、本です。
読み易い短い文章で、写真とイラストが綺麗な本です。鎌倉幕府滅亡から鎌倉府の設立、五代鎌倉公方の成氏が享徳の乱で鎌倉を去り、戦国時代になるまでを書いた本です。
図や年表を使い、関東の大乱を、分かり易く解説しています。入門書にぴったりです。
峰岸先生は、地元に住んでらっしゃるので、鎌倉人ならではの視点もあります。お気に入りの本になりました。
図説 鎌倉府
研究書、鎌倉公方の本が続々出版!
この本で知ったのですが、鎌倉府の統治地域は、はじめから伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸・越後と規定され、統治されていた訳ではありませんでした。
鎌倉府は、相模・武蔵の南関東から、権力を北関東から二代氏満の時に、東北地方へとのばしました。東北の豪族たちに反発されました。
平一揆、白旗一揆のこと然り、複雑な背景を解説されています。現代にも通じる人間関係を見るようです。
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瑞泉寺 本堂