久し振りに、頼朝の墓に行って来ました。
久し振りに西御門の、源頼朝の墓に行って来ました。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送を受けてなのか、墓地の回りが整備されていていました。
墓の回りは草刈りがしてあり、階段には手すりが新しく取り付けられていました。
頼朝の墓は、以前より石段の上り下りが楽になって、訪問し易くなっています。
4月に行きましたので、山の中腹にある頼朝の墓の回りは、若葉が鮮やかで、視界が開けて開放感がありました。
アクセス
最寄駅:JR横須賀線線鎌倉駅・江ノ島電鉄鎌倉駅 東口より徒歩15分
バス :
京急バス 鎌倉駅 ⇔ 鎌倉宮・大塔の宮行、岐れ道 下車3分
京急バス 鎌倉駅 ⇒ 金沢八景駅行、鎌倉霊園太刀洗行、ハイランド循環行、岐れ道 下車3分

頼朝の墓への階段
階段に向かって左が白旗神社、右が北条義時の法華堂跡です。
頼朝の墓の歴史 幕末に薩摩藩 島津家が作りました。
この場所は、元は頼朝の持仏堂でした。
頼朝は階段の下の、現在の白旗神社の場所に、生前持仏堂を作っていました。ここは大倉御所・鎌倉幕府の北側の山腹です。
頼朝2歳の時、頼朝の乳母が京都の清水寺に、参篭・泊まり込みでお祈りをしたおり、小さな観音像を授けられました。
石橋合戦のとき、頼朝は髪の毛の中に、この観音像を入れて戦いました。逃げるときに、
「敵に首を取られて、髪の毛の中から観音像が出てきたら。源氏の大将として恥ずかしい」
観音像を洞窟の中に捨て行きました。4か月後伊豆山権現の僧侶が発見して、頼朝のもとに観音像は戻りました。
頼朝は幕府の北の、白旗神社の場所にプライベートなお堂・持仏堂を作り、この観音像を祀ったのです。
持仏堂が法華堂に。頼朝は法華堂に葬られました。
建久9年(1198年)12月、頼朝は相模川に掛けた、新しい橋の供養の帰りに落馬。翌年の建久10年1月13日に源頼朝は病死しました。
法華堂は本来は、法華三昧の修行のための、建物でした。21日間仏像の回りを、経を唱えて廻り坐禅を組みました。
後に法華三昧修行は、死者の追悼を目的に、行われるようになりました。鎌倉時代初期には法華堂は最高権力者たちの墓になりました。
「鎌倉殿の13人」の後白河法皇や北条義時も、法華堂に葬られました。
頼朝の死後、持仏堂は法華堂になり、頼朝は大倉御所を見守るように、法華堂に葬られたのでした。
頼朝の法華堂は、今の白旗神社の位置にありました。
明治時代のはじめ、取り壊され、中に有った位牌などは鶴岡八幡宮に移されました。
本尊の如意輪観音像は、来迎寺(西史御門)に移されました。美しい仏像として、現在も人気の仏像です。
参考文献 史伝 北条義時 ~武家政権を確立した権力者の実像 山本みなみ
幕末に薩摩藩 島津家が、頼朝の墓をたてる。
江戸時代後期の安永8年(1779)。薩摩(鹿児島県)の島津家25代当主、島津重豪が、頼朝の墓をたてました。
頼朝の墓と、隣の北条義時の法華堂の跡は、国指定史跡になっています。

源頼朝の墓の周囲
白旗神社と北条義時の法華堂跡 へのリンク
白旗神社

法華堂 北条義時の墓

頼朝の御落胤? 島津一族と源頼朝
薩摩の島津家といえば、鎌倉幕府の御家人出身で、九州に地頭として派遣された、島津忠久が初代となっています。
島津忠久の父は、源頼朝。母は大倉御所に勤める、女房の丹後局。という伝説があります。
北条政子を怖れた、丹後局は京都に逃れ、大阪府の住吉神社で忠久を生んだそうです。
頼朝の墓 アクセスデータ
頼朝の墓のデータ
2022年調べ
webサイト | なし |
住 所 | 神奈川県鎌倉市西御門2丁目 |
入場時間 | 拝観自由 |
拝 観 料 | なし |
ト イ レ | なし |
アクセス方法
最寄駅:JR横須賀線線鎌倉駅・江ノ島電鉄鎌倉駅 東口より徒歩15分
バス :
京急バス 鎌倉駅 ⇔ 鎌倉宮・大塔の宮行、岐れ道 下車3分
京急バス 鎌倉駅 ⇒ 金沢八景駅行、鎌倉霊園太刀洗行、ハイランド循環行、岐れ道 下車3分

頼朝の墓
近くの名所
白旗神社

法華堂 北条義時の墓

来迎寺(西御門)

荏柄天神 日本三代天神の一つ

鎌倉宮

永福寺跡

宝戒寺
