鎌倉にもある、戦国・家康ゆかりの寺
歴史好きさんならば、戦国時代の鎌倉には玉縄城がありました。小田原の北条氏の重要な城でした。北条氏滅亡後は関東に徳川家康が入りました。北条氏・家康に両方ともに帰依されたのが、岩瀬にある大長寺です。横浜市との境近く、県道鎌倉街道から入った場所にあります。有名な鎌倉ハムの工場の近くです。鎌倉の観光エリアから外れるので、鎌倉らしい山に囲まれた風情のある寺院ではありませんが、視界が開け平地が望めるお寺ですです。
見どころ、境内
県道から大長寺の大きな冠木門をくぐり、境内に入ると幅の広い石段が目に入ります。徳川家康がか駕籠に乗って上った石段です。石段を上って振り返ってください。大船の街が望めます。開放感のある境内になります。

大長寺 家康が駕籠に乗って登った石段
北条氏の屋敷を移した本堂は、残念なことに明治15年(1882)12月に消失しました。昭和43年に再建されました。本堂の他に宝蔵・庫裡・鐘楼があります。宝蔵には北条為昌室の木像と家康と父の松平広忠の位牌と家康の木像が収蔵されています。開山の感誉存貞が開山の折祷して湧いた「吉祥水」「梅の井」もあります。

大長寺 鐘楼

大長寺 境内
戦国武将 北条綱成とその家族
大船駅の西に、伊勢宗瑞(北条早雲)が築城した玉縄城があります。その玉縄城の3代目の城主北条綱成がスポンサーになって、大長寺を開きました。綱成は駿河出身で優秀でしたので北条一族に迎え入れました。妻は北条氏綱の娘で、美男子で、当時としては長命で73歳まで生きました。
玉縄城

開基の感誉存貞は小田原北条家の重臣の大道寺一族の出身でした。筆頭家老と言っていい一族です。
伊勢宗瑞と大道寺氏の繋がりがよく分かります。
綱成の嫡子、氏繁の妻で北条氏康の娘の、七曲(ななまがり)殿の墓が一族の墓と一緒に、裏山の墓地にあります。
家康のお杖先(つえさき)の田
この寺に残る家康の伝説です。北条氏滅亡後に関東に入った徳川氏が、関東人の心をどのように掴んだのか分かる逸話です。家康は茶目っ気がある人なんですね。
家康が鷹狩の折、大長寺に立ち寄りました。家康はお寺の前で杖を振り回して、杖が刺さった土地を寄進しました。その田は3町歩(およそ300アール)ほどあり、太平洋戦争後の農地改革まで、「お杖先の田」と呼ばれていました。
家康が大長寺を訪れたのは、住職の4代源栄の評判を故郷の三河の大樹寺の僧から、聞いていたからです。後に源栄は大樹寺の僧になりました。
あるとき突然、家康が訪ねてきました。源栄が
「鷹狩ですか」
と尋ねると家康は
「南無阿弥陀仏、鳥はとらない」
と答えたということです。
(かまくら子ども風土記)

大長寺
大長寺のデータと歴史
宗派 浄土宗
山号寺号 亀鑑山 大長寺 (ききょうざん だいちょうじ)
創建 天文17年(1549)戦国時代
開山 感誉存貞
開基 北条綱成
本尊 阿弥陀三尊
寺宝 俱利伽羅龍の図、北条為昌夫人の木像(天文十八年⦅一五四九⦆仏師宗琢作。女性の木像で戦国時代の年号が入るのは珍しい)山越阿弥陀像、四季詠歌短冊一枚、起請文、遣、古文書
亀鑑山大長寺は戦国時代の天文十七年(一五四八)、北条綱成が玉縄城主として一帯を治めていた時に建立された。開山は小田原北条氏の家臣・大道寺氏の一族感誉存貞である。四代目住職・暁誉源栄は家康に尊祟され、家康直々の来訪を受けたこともある。大長寺は北条氏、徳川氏によって代々崇められた格式の高い寺である。
鎌倉の寺 小事典
アクセス方法
webサイト: | なし |
住 所: | 神奈川県鎌倉市岩瀬1464 |
電 話: | 0467-46-4428 |
駐 車 場: | |
入場時間 : | なし |
拝 観 料: | なし |
そ の 他: | |
ト イ レ: |
アクセス方法
最寄駅:JR東海道線・横須賀線・根岸線(京浜東北線)大船駅下車
バ ス:江ノ電バス 鎌倉湖畔循環 砂押橋下車3分
大船地区の寺社
常楽寺https://koten-kagu.jp/2018/01/30/kamakura-134
白山神社・今泉寺

成福寺

龍宝寺
