来迎寺の、魅惑の如意輪観音。
鎌倉には、来迎寺が2つあります。
鎌倉には来迎寺(らいごうじ)が、2つあります。町名でいうと、西御門(にしみかど)と材木座の2か所になります。
これだけでもややこしいのですが、両寺院とも宗派が同じ時宗です。実は以前こちらの、西御門の来迎寺に行くはずだったのに、材木座の来迎寺に行ってしまいました。間違えないように簡単に説明します。
西御門の来迎寺 ー 如意輪観音があります。
材木座の来迎寺 ー ミモザの花と、三浦大介と三浦一族の墓があります。

来迎寺(西御門)のアクセス
最寄駅:JR横須賀線線鎌倉駅・江ノ島電鉄鎌倉駅 東口
バ ス:京急バス 鎌倉⇔金沢八景駅・鎌倉霊園太刀洗行・ハイランド循環行
岐れ路バス停下車 10分
鎌倉一美しい!如意輪観音像
知り合いが、来迎寺の如意輪観音像のことを、「鎌倉一美しい!」と称賛していました。通販番組の「個人の感想」と同じに受け止めて下さい(笑い)。
頭に金の冠をかぶり、片膝を立て、夢見ような穏やかな表情の観音様は「萌え」要素も多分にあり、美しさの点で他の仏像には引けを取らないでしょう。
西御門という地名は、近くの清泉小学校が、ちょうど鎌倉幕府の大倉幕府跡地になります。
大倉幕府は東西南北に門があり、その西門の外という意味です。ここには頼朝が建立した法華寺、禅寺の報恩寺、尼寺の大平寺などがありました。
今は一遍上人が地震の被災者の供養に建てて、村人たちに守られてきた、来迎寺ひとつが残るだけです。

来迎寺 本堂
来迎寺の仏像について
本尊 阿弥陀如来坐像
現在の阿弥陀如来像は、三百年前の江戸時代に、扇ガ谷の鎌倉仏師三橋薩摩の作です。元になったの室町時代のお像の特徴を、よくとらえています。
御利益 戌年 亥年のお守り 十二支のお守り

来迎寺(西御門)阿弥陀如来坐像 http://n-raikoji.jp/publics/index/19/
如意輪観音半跏像
来迎寺といえば如意輪観世音菩薩!こちらを拝みたくて多くの方が訪れます。
元は源頼朝の持仏堂であった法華堂にありました。明治のはじめに法華堂は廃絶し白旗神社になりました。廃絶後に如意輪観音像は来迎寺に移りました。
この如意輪観音は手が六臂(6本)で真言宗のお仏像です。北条政子の持仏と思われていましたが、南北朝時代に制作されたおぞうでした。
寄木造りで目は玉眼、ほぼ等身大で蓮華座に坐り高さ97.5cmです。
土紋(どもん)という鎌倉地方で独特の技法が使われています。土と漆を混ぜたもの、ビスケットのように模様を型でぬき仏像に貼り付けて、衣服の模様にしています。
こちらの如意輪観音には伝説があります。昔、由比の長者というお金持ちがいました。長者の愛娘が由比ガ浜で遊んでいると、大鷲に娘がさらわれてしまいました。
長者が手を尽くして娘の行方を捜しましたが、娘は空しく亡くなっていました。長者は娘の遺骨をこのお像におさめました。
御利益 安産 厄除け

来迎寺 如意輪観音像http://n-raikoji.jp/publics/index/19/
岩上地蔵菩薩坐像
いい仏様です!
こちらの岩上地蔵菩薩坐像は、東京国立博物館や奈良国立博物館にたびたび展示されています。来迎寺の近くにありました、禅宗の報恩寺にありました。
禅宗の仏様が、時宗のお寺にあるのは、鎌倉の寺社の栄枯衰勢を思うと、感慨深いものです。
報恩寺は南北朝の臨済宗の僧で、五山文学の代表、義堂周信が開きました。かつては大きな寺院でしたが15世紀後半から16世紀初頭に(戦国時代)廃寺になりました。
岩上地蔵菩薩坐像は 寄木造り目は玉眼、ほぼ等身大で、高さは84.1cmです。岩の上に坐っています。
南北朝の永徳四年(1384)宅間法眼淨宏の作です。法衣垂下という14世紀~15世紀に、東国の禅宗で見られる、衣が台座から下に垂れている、お像です。
御利益 子供守り

来迎寺(西御門)岩上地蔵菩薩坐像 跋陀婆羅尊者像
跋陀婆羅尊者像(ばったばら そんじゃぞう) 浴室の仏様
跋陀婆羅尊者は禅寺の、浴室の守り仏様です。浴室で悟りを開いた羅漢様です。禅宗では浴室にまつられています。
これも岩下地蔵菩薩坐像と同じく、報恩寺から来ました。
普通禅寺の跋陀婆羅尊者像は小さく、浴室にあるため傷みが激しいそうです。来迎寺には大き目につくられています。
こちらもしばしば東京国立博物館や奈良国立博物館に展示されています。昨年、話題になった東京国立博物館の「禅心をかたちに」展に出展しました。
寄木造り、目は玉眼 高さは112.5cmです。おそらく報恩寺創建当初からのお仏像と言われています。足腰の痛み、目の痛み、頭痛に霊感あらたかで、昔は草鞋の奉納がありました。
御利益 健脚健康お守り 治眼お守り
梅かまくら特別参拝で、和尚さんに色々と聞いてきました。
2017年3月9日に鎌倉十三仏詣りの梅かまくら特別参拝で、来迎寺(西御門)にお伺いしました。本堂で和尚さんと息子さんの講話を聴きました。
お話の後で「三尊礼」と「別願和讃」を唱えて頂き、その後は如意輪観音をはじめとする仏像を近くで拝見いたしました。
その時住職さんから聞いた話を紹介します。項目ごとにまとめましたので話の順番は実際と前後します。
仏像についての話は、上の各仏像の方に書きました。勘違い聞き間違いもあると思いますが、そこはお許し下さい。
時宗のこと。
来迎寺の住職さんは、藤沢の時宗の本山清浄光寺(遊行寺)の経営する、男子校藤嶺藤沢の職員で月~土は学校の方にいるそうです。

時宗は勢力が大きな宗派でないので、住職さん自虐ネタが炸裂しました。「遊行寺が注目されるのは年に一度、箱根駅伝の遊行寺の坂だけ」など。
小さいがゆえに、他の宗派のことも寛容に受け入れています、とも仰っておられました。日蓮宗のお寺で納経を断られた、般若心経の写経を来迎寺で受けたこともあったそうです。
禅宗と真言宗の仏様を受けたのはこういう素地があったからでもあるようです。
時宗の念仏は、声を出して唱えます。
来迎寺がどうして残ったのか
かつて西御門には、源頼朝の法華寺、室町時代の鎌倉管領上杉能憲の報恩寺、尼五山第一位の大平寺など五つの寺院がありました。
鶴岡八幡宮にも近く、幕府もあった場所です。寺格が高く、大きなお寺ばかりでした。
村人のための寺だった来迎寺が残ったか、住職さんが言うには、大きなお寺は維持が大変。この来迎寺は、村人が檀家になるなど、守ってくれたからだそうです。
最近、過疎高齢化で、墓じまいや寺の存続危機が問題にされています。廃寺の仏たちを受け入れてきた来迎寺の住職さんは、「葬式仏教」と非難するのは違うのではないのかと、問われました。自然の流れにまかせて、寺が滅んでも良いのではないか?とも言われました。
来迎寺(西御門)とは
- 宗派 時宗藤沢山清浄光寺(遊行寺)末寺
- 山号寺号 満光山来迎寺(まんこうざん らいごうじ)
- 創建 正応六年(1293)
- 開山 一向上人の名によって
- 本尊 阿弥陀如来像
- 鎌倉三十三観音霊場 第五番札所 如意輪観世音菩薩
- 十三佛霊場巡拝 第十番札所 阿弥陀如来
正応六年(1293)鎌倉で地震があり死者二万三千人、建長寺が焼失、実朝の建てた大慈寺が倒壊しました。とりわけ死者の多かった西御門に、村人たちの菩提を弔うために、一向上人の名のもとに、来迎寺は建立されました。

来迎寺 本堂
太平寺跡 鎌倉尼五山第一位とは
八雲神社と来迎寺の間の左に折れる坂道を登ると、突き当りに金網に囲まれたテニスコートがあります。今は横浜国立大学付属のテニスコートですが、かつて鎌倉尼五山第一位の大平寺がありました。
戦国時代住職の青岳尼を、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入り、奪い妻とする事件がおこりました。
時の領主、小田原北条氏の北条氏康が怒り、太平寺を廃寺にしました。その後仏殿は円覚寺に移され、国宝舎利殿に、本尊の聖観音立像は同じ尼五山の東慶寺にうつされました。
円覚寺 舎利殿

東慶寺

八雲神社(やぐもじんじゃ)西御門とは
来迎寺への階段手前にあるのが、この辺りの西御門の鎮守様、八雲神社です。
境内には市の民俗資料の石の庚申塔が、鳥居をくぐってすぐ右側にあります。

八雲神社

八雲神社 庚申塔
- 祭神 須佐男皇命
- 例祭 七月六日
- 境内社 稲荷神社
西御門の鎮守。縁起は詳らかではなく、『相模風土記』にある「字大門の天王社」がこの社の前身といわれる。神殿は天保3年(1832)5月の建立と「大正7年明細書」にある。
鎌倉の神社 小事典
来迎寺(西御門)アクセスデータ
観光情報
2022年6月確認
webサイト | http://n-raikoji.jp/ |
住所 | 神奈川県鎌倉市西御門1-11-1 |
電話 | 0467-24-3476 |
FAX | 0467-24-6895 |
完全予約制 |
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拝観料 | 300円 |
アクセス方法
最寄駅:JR横須賀線線鎌倉駅・江ノ島電鉄鎌倉駅 東口
バ ス:京急バス 鎌倉⇔金沢八景駅・鎌倉霊園太刀洗行・ハイランド循環行
岐れ路バス停下車 10分
来迎寺と一緒にまわろう、近く名所。
源頼朝の墓

白旗神社

法華堂跡(北条義時の墓)

荏柄天神

鎌倉宮


覚園寺


瑞泉寺

宝戒寺
