家光の弟、徳川忠長を夫人が供養した寺
薬王寺は北鎌倉から、亀ヶ谷の切通を越える道の脇道にあり。住宅地に、ひっそりと建っています

戦国から江戸初期の、女性達にまつわるお寺が、鎌倉には幾つかあります。豊臣秀頼の娘の天秀尼の東慶寺、徳川家康の側室、お勝の方が開いた英勝寺、建長寺の仏殿は、淀殿の妹で徳川秀忠の正室お江の御霊屋(お墓)でした。
ここ薬王寺も徳川家光の弟、忠長が高崎で自刃後、正室の松孝院が供養塔を建立して多額の寄進をしました。また、戦国の名将、蒲生氏郷の孫で伊予松山藩の蒲生忠知の、正室と娘の墓があります。
江戸時代、徳川家とゆかりのある寺院でしたので、町人の埋葬は許されない、格式の高いお寺でした。
見どころ
かつては三千坪の境内に、五重塔や多くのお堂が建っていたそうです。江戸時代享保年間の火災で焼けました。
本堂
享保12年(1727)再建されました。関東大震災にも耐えました。本堂に祀られている日蓮像は、日蓮坐像では最大級です。お参りするとき、引き戸を開けて拝むと見れます。
江戸中期 住宅系本堂 6間×5間向拝 入母屋・瓦葺き 角柱 旧出桁

薬王寺 本堂
家康の孫、駿河大納言徳川忠長の供養塔。
山門を入ってすぐ、本堂の右手にあります。葵の紋の付いた石塔です。
ドラマでもたびたび取り上げられる、二代将軍徳川家光の弟の忠長の供養塔です。権力争いに敗れ、高崎で自刃後、正室で織田信良上野小幡藩主の娘で、織田信長のひ孫の松孝院が建立したもの。

薬王寺 徳川忠長の供養塔
観音堂
本堂左手の、石段の上にあります。墓地の中ですが、鎌倉の街が見渡せます。

薬王寺 観音堂
蒲生家の墓 母と娘の墓です
戦国武将として名高い蒲生氏郷の、孫の正室と最後の子孫になった、ひ孫の女の子の墓です。
観音堂の右手墓地のなかに、伊予松山藩主、蒲生忠知の正室 松壽院と12歳で亡くなった梅嶺院の宝筐院塔が建っています。5mの高さがあります。

薬王寺 蒲生家の宝筐院塔
こらむ、石、特に宝筐院塔が好きに、おすすめしたい。
忘れていましたが、子供のころに来ていました。山門へ続く坂道をのぼりながら、知ってい所だと思いました。デジャヴ!
このお寺をお薦めしたい人は、「石」が好きな人、鎌倉でよく見かける、五輪塔や宝筐院塔に心惹かれる人は、こちらの寺院を訪ねることをおススメします。
近くの浄光明寺には、藤原定家の孫、冷泉為親の墓があります。

扇ガ谷は石塔、石仏、石・岩好きにはもってこいの場所です。
薬王寺とは
宗派 日蓮宗
山号寺号 大乗山 薬王寺 (だいじゅぷざん やくおうじ)
創建 永仁元年(1293)
開山 日像上人(中興開山・日蓮上人)
本尊 久遠本師釈迦牟尼仏
もとは真言宗に属し、梅嶺山夜光寺と称していた。永仁元年(1293)日像上人がこの寺に逗留した折、住職と宗教論議に及び数日間の論争の末、日蓮宗に改宗され、大乗山 薬王寺となった。
徳川3代将軍の弟、駿河大納言忠長が高崎で自刃、妻の松孝院はこの寺に供養塔を建立し、永代追善菩提のため多額の金子と広い土地を寄進した。三千坪の境内には五重塔や諸堂が建てられたが、享保五年(1720)の火災で焼失した。
江戸時代薬王寺は徳川家と縁が深く、寺紋にも、三つ葉葵が用いられた。そのため町人の埋葬は許されない格式の高い寺であった。(略)
明治時代に入ると廃仏毀釈のため寺は荒廃、無住の時代が五十年以上続いた。
鎌倉の寺 小事典
アクセスデータ
webサイト: | http://www.kamakura-yakuouji.com/ |
住 所: | 神奈川県鎌倉市扇ガ谷3-5-1 |
電 話: | 0467-22-3749 |
入場時間 : | 特になし |
拝 観 料: | 無料 |
アクセス方法
最寄駅: | JR横須賀線鎌倉駅・江ノ島電鉄鎌倉駅 西口 徒歩15分 |
JR横須賀線北鎌倉駅 徒歩20分 |

大乗山 薬王寺
近くの名所 鎌倉駅西口より今小路を北上
巽神社
壽福寺
海蔵寺
岩船地蔵
浄光明寺
薬王寺
北鎌倉から行くときは、亀ヶ谷の切通を通ります。

2016年6月26日初出
2022年2月17日改訂